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廣瀬金之助教授の時代

 昭和5年12月31日第2代眼科学講座主任教授として九州大学より廣瀬金之助教授が赴任した。創設間もない教室で設備も充分でない研究室を整備し、廣瀬教授の指導のもとに研究活動がようやく盛んとなり、眼瞼の解剖に関する研究、マイボーム氏腺・睫毛・眼輪筋の形態学的病理学的研究を数多く発表している。「皮膚性捷内反症」をはじめ、多くの学問的業績が蓄積され、当時一地方医専であった教室を全国の既成大学教室に伍する水準にまで引き上げたのもこの時期であったと、久留米大学50年史に記されている。
 昭和18年2月27日九州高等医学専門学校と改称認可、修業年数も5年に延長され大学昇格への基礎を固めた。しかし、時局は戦争に突入し落ち着かない情勢の中、終戦までが教室の最も困難な時期であった。その中にあって、教室出身者(第3回生)の島津(三木)彊が昭和19年に助教授に就任し主として眼精疲労に関する業績を挙げ後進の指導に当った。この戦時下での教室の主な研究は、廣瀬教授の屈折異常に関する研究、上原有城講師、吉岡久春等の仮性近視と自律神経との関係に関する研究、李専銘の近視発生機転と強膜伸展との関係に関する研究などが挙げられる。この間廣瀬教授は昭和20年6月18日附属病院長に就任した。
 昭和20年8月終戦を迎え教室員の復帰によりようやく教室の体制を整えるに至った。昭和21年3月31日大学昇格し久留米医科大学となり廣瀬教授は引き続き久留米医科大学眼科学教室初代教授として尽力したが、昭和21年6月23日付で長崎医科大学教授に転任することとなった。慶瀬教授の直接指導を受けた教室員は49名および学位取得者は5名を数えている。
 主な研究:眼球摘出の実験的研究、邦人眼瞼の形態学的知見、マイボーム氏腺梗塞の新研究、梗塞の形態殊に形態的発生過程について、皮膚性睫毛内反症の本態について、大西・高安症候群の研究、邦人胎児視器の発生学的研究など。

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