増田義哉教授の時代
生井浩教授の九州大学教授転任後、昭和34年8月1日付で広島赤十字病院眼科部長の増田義哉博士が第5代主任教授に着任した。当時の資料をみると赴任当初は木村一雄助教授以下5名という少人数であったが、徐々に教室員の数も増え教室の研究も基礎・臨床両面で活発となり多くの研究業績を残すに至った。また、増田教授は昭和42年4月から2年間久留米大学医学部附属病院長の要職を務めた。
教室の研究は、白内障・緑内障・高血圧性眼底病変を中心とした臨床に関係の深い分野の研究は増田教授が指導し、電子顕微鏡を用いた病理組織学的研究は主に木村助教授が担当した。木村助教授は昭和38年2月に辞職し、後任として長崎大学から吉岡久春助教授が同年4月に赴任した。吉岡助教授は網膜剥離の手術で当時の最新の技術を用い成果をあげ、また螢光眼底検査では国内屈指の業績をあげた。また、昭和39年7月には久留米大学眼球銀行が設立されたが、これは我が国のアイバンクとしては7番目であった。このように、増田教授時代の当教室は、研究面では白内障・網膜剥離・螢光眼底造影に関する幾多の業縦を残し、また、臨床面では白内障手術・網膜剥離そして角膜移植などに優秀な実績をあげている。増田教授は昭和48年3月に定年退職し、その後、福岡大学初代眼科学教授に就任した。増田教授時代に学位を授与された教室員は24名で、この間の主な研究は下記の如くである。
主な研究:粟粒結核患者に見た結核性全眼球炎の臨床的並びに組織学的研究、広義に於ける所謂家族性角膜変性症の臨床的並びに組織学的研究、白内障患者血清中のカルシウム含有量に就いて、片眼性眼窩眼瞼嚢腫の組織学的研究、酸化還元より見たる硝子体の生化学的研究、クレーデ氏法に因る角膜障害例並びに実験、角膜管錐術後の後伝染二例、副腎皮質ホルモン剤連用者に見られた一種の白内障に就いて、新しい水晶体全摘出鑷子(吸着鑷子)について、高血圧と眼底所見、眼科領域におけるホルモン療法、白内障の診断・治療・予後など。