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久留米大学医学部眼科学教室の歴史

久留米大学眼科の歴史は久留米大学の前身である九州医学専門学校が創立された昭和3年4月1日と同時に始まり、大変歴史のある教室です。

 

「実地医家を養成する」という九州医学専門学校の設立主旨を基盤として発展し、これまですばらしい臨床医・医学研究者を多く輩出しています。また、校歌は北原白秋によって作詞され、「国手の理想は常に仁なり」と、格調高い詞が綴られています。

​歴代教授

当教室の歴代教授は、初代の吉村郁三先生(昭和3年4月〜昭和4年6月)、2代の廣瀬金之助先生(昭和5年12月〜昭和21年8月)、3代の南熊太先生(昭和21年9月〜昭和31年11月)、4代の生井浩先生(昭和31年12月〜昭和34年6月)、5代の増田義哉先生(昭和34年8月〜昭和48年3月)、6代の吉岡久春先生(昭和48年4月〜平成2年3月)、7代の望月學先生(平成2年5月〜平成10年9月)、8代の山川良治先生(平成11年2月〜平成30年3月)へと引き継がれ、平成30年4月に吉田茂生が主任教授として着任しました。

 

近年の各教授の専門分野は、増田教授時代の白内障、吉岡教授時代の蛍光眼底造影の読影を中心とした網膜疾患の臨床、望月教授時代のぶどう膜炎、山川教授の緑内障手術を中心とした臨床、そして吉田教授の網膜硝子体疾患の臨床へと変遷しています。

このような歴史の中で、当教室は一貫して科学的探究心を兼ね備えた心優しき良医の育成を目標に掲げ、優秀な先輩方が筑後地方、九州、さらに全国で活躍しています。

(昭和3年~昭和4年)

吉村郁三教授の時代

 吉村教授は不幸にも眼科学講座創立の激務のためか病床に臥し実質的業務が不可能となり、昭和4年6月15日に辞職した。このため、九州大学眼科学教室に応援を求め、江浦栄山九州大学講師が昭和4年6月4日より本学講師として赴任し、さらに同年6月15日付で今井良平九州大学助教授が本学講師として診療に当り、最初の講座を担当した。昭和4年12月31日江浦講師が辞任したあと、同じく九州大学眼科学教室から田中徳講師が着任し、今井講師が昭和5年7月25日辞任してからは廣瀬金之助教授が着任した同年12月31日まで田中講師が単身活躍した。
 当時は、まだ教室としての機能が充分に発揮するまでには至らず、当時の教室員は講師の他は2名に過ぎなかったと資料には記されてある。

(昭和5年~昭和21年)

廣瀬金之助教授の時代

 昭和5年12月31日第2代眼科学講座主任教授として九州大学より廣瀬金之助教授が赴任した。創設間もない教室で設備も充分でない研究室を整備し、廣瀬教授の指導のもとに研究活動がようやく盛んとなり、眼瞼の解剖に関する研究、マイボーム氏腺・睫毛・眼輪筋の形態学的病理学的研究を数多く発表している。「皮膚性捷内反症」をはじめ、多くの学問的業績が蓄積され、当時一地方医専であった教室を全国の既成大学教室に伍する水準にまで引き上げたのもこの時期であったと、久留米大学50年史に記されている。
 昭和18年2月27日九州高等医学専門学校と改称認可、修業年数も5年に延長され大学昇格への基礎を固めた。しかし、時局は戦争に突入し落ち着かない情勢の中、終戦までが教室の最も困難な時期であった。その中にあって、教室出身者(第3回生)の島津(三木)彊が昭和19年に助教授に就任し主として眼精疲労に関する業績を挙げ後進の指導に当った。この戦時下での教室の主な研究は、廣瀬教授の屈折異常に関する研究、上原有城講師、吉岡久春等の仮性近視と自律神経との関係に関する研究、李専銘の近視発生機転と強膜伸展との関係に関する研究などが挙げられる。この間廣瀬教授は昭和20年6月18日附属病院長に就任した。
 昭和20年8月終戦を迎え教室員の復帰によりようやく教室の体制を整えるに至った。昭和21年3月31日大学昇格し久留米医科大学となり廣瀬教授は引き続き久留米医科大学眼科学教室初代教授として尽力したが、昭和21年6月23日付で長崎医科大学教授に転任することとなった。慶瀬教授の直接指導を受けた教室員は49名および学位取得者は5名を数えている。
 主な研究:眼球摘出の実験的研究、邦人眼瞼の形態学的知見、マイボーム氏腺梗塞の新研究、梗塞の形態殊に形態的発生過程について、皮膚性睫毛内反症の本態について、大西・高安症候群の研究、邦人胎児視器の発生学的研究など。

(昭和21年~昭和31年)

南熊太教授の時代

 廣瀬教授転任のあとを受けて昭和21年9月27日、南熊太熊本医科大学助教授が第3代の本学眼科学講座主任教授・眼科医長として活躍することとなった。南教授の時代に研究・診療・教育のための設備の充実がはかられ、昭和28年には新たに眼科研究室が二部屋増設され、外来の機能検査室と暗室の拡充、そして学生の検眼鏡実習室なども整備された。また、南教授時代の特記すべき出来事のひとつに、大変に不幸な天災である筑後川大洪水による水害があげられる。昭和28年6月25日から筑後地方を襲った豪雨により6月26日に筑後川堤防が決壊し、久留米市の大部分が水害に見舞われたが、久留米大学は筑後川のすぐそばに位置し、大学の建物は二階床下まで浸水した。幸い、眼科学教室は二階と三階にあったため濁水による直接の被害は少なかったが、それでも眼科関係の文献の大半が水浸しとなった。当時の眼科学教室は南教授を中心に、まず損失した文献の整備を行い、また、大洪水により被害を受けた大学および附属病院の再建に力を注ぐ必要があり教室員の研究も一時的な影響を受けた。
 南教授は着任以来附属病院臨床病理研究室の主任としてその充実と整理に努めた。南教授時代の教室の研究は、眼病理組織学を中心に多岐にわたるが、主なものを列挙すると以下の如くである。上原有城講師、西岡慶四郎らと共に行った屈折調節に関する研究、終戦直後に多発したメチルアルコール中毒による視神経萎縮に関する研究、実験的動脈硬化症における病理組織学的研究、甲状腺機能異常症における眼病理組織学的研究、カルピノールの毒性に関する薬理学的研究、木村一雄助教授を中心とするトラコーマパンヌスの研究などである。このような基礎的・臨床的研究の他に板付レンズの試作や周辺視力検査器および遠近知覚力測定器など各種の検査器械の試作と実用の工夫を行い検査方法の普及に努め、これらを用いて学校保健の充実にも力を注いだ。南教授は各地の学校保健学会に出席し、九州山口学校保健学会において、視力ならびに眼科的保健の問題についての特別講演をした。また南教授は昭和22年4月日本眼科学会評議員当選以来連続当選し、日本眼科医会理事・参与も務めた。南教授時代の学位取得者は3名である。
 主な研究:調節と屈折との関係に就いての研究、有明海沿岸のトラコーマの公衆衛生学的研究、眼組織糖原の病理組織学的研究、実験的動脈硬化症に於ける眼組織の病理組織学的研究、縮瞳点眼薬カルピノールの毒性に関する研究、眼科診療用器具に就いて、両眼網膜膠腫の治療に関する研究、眼瞼皮膚弛緩症に就いての研究、色盲検査表に就いての研究、聾学校生徒の眼疾患に就いての研究、学校生徒児童に於ける屈折状態特に遠視に就いての研究(試作板付レンズに就いて)などがある。

(昭和31年~昭和34年)

生井浩教授の時代

 昭和31年11月末、南教授は健康上の理由で退職したが、同年4月より九州大学から着任していた生井浩講師が12月1日付で第4代眼科学主任教授となった。生井教授は教授就任直後の12月1日から米国ハーバード大学へ留学のため渡米し、昭和33年1月8日に帰国したが、昭和34年6月には九州大学教授に転任した。生井教授は、電子顕微鏡という当時の最先端の研究手法をいち早く取り入れて眼病理組織学的研究を展開したが、教室においても、眼組織の電子顕微鏡学的研究やウイルス性眼疾患の電子顕微鏡学的研究そして組織培養に関する研究を教室員に指導し、これらの研究は生井教授が九州大学に転任した後に大きく結実し多数の研究業績が生まれた。生井教授時代の学位取得者は8名であった。

(昭和34年~昭和48年)

増田義哉教授の時代

 生井浩教授の九州大学教授転任後、昭和34年8月1日付で広島赤十字病院眼科部長の増田義哉博士が第5代主任教授に着任した。当時の資料をみると赴任当初は木村一雄助教授以下5名という少人数であったが、徐々に教室員の数も増え教室の研究も基礎・臨床両面で活発となり多くの研究業績を残すに至った。また、増田教授は昭和42年4月から2年間久留米大学医学部附属病院長の要職を務めた。
 教室の研究は、白内障・緑内障・高血圧性眼底病変を中心とした臨床に関係の深い分野の研究は増田教授が指導し、電子顕微鏡を用いた病理組織学的研究は主に木村助教授が担当した。木村助教授は昭和38年2月に辞職し、後任として長崎大学から吉岡久春助教授が同年4月に赴任した。吉岡助教授は網膜剥離の手術で当時の最新の技術を用い成果をあげ、また螢光眼底検査では国内屈指の業績をあげた。また、昭和39年7月には久留米大学眼球銀行が設立されたが、これは我が国のアイバンクとしては7番目であった。このように、増田教授時代の当教室は、研究面では白内障・網膜剥離・螢光眼底造影に関する幾多の業縦を残し、また、臨床面では白内障手術・網膜剥離そして角膜移植などに優秀な実績をあげている。増田教授は昭和48年3月に定年退職し、その後、福岡大学初代眼科学教授に就任した。増田教授時代に学位を授与された教室員は24名で、この間の主な研究は下記の如くである。
 主な研究:粟粒結核患者に見た結核性全眼球炎の臨床的並びに組織学的研究、広義に於ける所謂家族性角膜変性症の臨床的並びに組織学的研究、白内障患者血清中のカルシウム含有量に就いて、片眼性眼窩眼瞼嚢腫の組織学的研究、酸化還元より見たる硝子体の生化学的研究、クレーデ氏法に因る角膜障害例並びに実験、角膜管錐術後の後伝染二例、副腎皮質ホルモン剤連用者に見られた一種の白内障に就いて、新しい水晶体全摘出鑷子(吸着鑷子)について、高血圧と眼底所見、眼科領域におけるホルモン療法、白内障の診断・治療・予後など。

(昭和48年~平成2年)

吉岡久春教授の時代

 増田教授が昭和48年3月に定年退職の後、吉岡久春助教授が昭和48年4月1日より第6代眼科学主任教授に就任した。吉岡教授の専門は眼科臨床の多岐の分野にわたるが、特に、網膜剥離手術と螢光眼底造影法を用いての眼底疾患の病態生理の研究ならびに光凝固治療は、我が国の研究の先駆をなし多くの実績と業績を残した。特に、中心性漿液性脈絡網膜症に関する一連の研究は世界的にも評価され欧米の眼科成書にも引用されている。吉岡教授が網膜剥離の治療、中心性脈絡網膜症やぶどう膜炎の螢光眼底所見、レーザー凝固治療などの分野で教室員を指導し、一方、杉田隆助教授(昭和53年~57年)および杉田新助教授(昭和62年~平成2年)は電子顕微鏡による眼組織病理学に関する研究分野で活躍し教室員の指導を行った。吉岡教授が中心となって教室全体が一体となって取り組んだ中心性漿液性脈絡網膜症のサル実験モデルの作製とその発症機序に関する研究や、光凝固装置の購入とその臨床応用は大変困難な状況のもとで、教室員の努力および教室同門会ならびに広石恂博士や林文彦博士などの寄付により可能となったと、吉岡教授退職記念誌に記されている。
 昭和62年10月2日~4日に、九州で初めての日本臨床眼科学会総会(第41回)が開催され、吉岡教授が会長をつとめ教室員が一体となり準備・運営し成功裡に学会を終えた。この学会で、吉岡会長は、特別講演の演者、シンポジウムの演者、そして座長のほとんどを各大学の助教授あるいは講師に依頼して、学会に若さと情熱を取り入れることを実行し大変な好評を博した。また、吉岡教授は定年退職した翌年の平成3年5月に第95回日本眼科学会総会において特別講演「中心性漿液性脈絡網膜症の病因」を行った。吉岡教授時代に学位を授与された教室員はl1名であった。
 主な研究:角膜真菌症、眼病理に関する研究、ぶどう膜炎、網膜剥離、眼底病変特に初発病変に関する研究、螢光眼底血管造影法による眼底疾患の研究など。

(平成2年~平成10年)

望月學教授の時代

 平成2年3月に吉岡教授が定年退職した後、5月16日付で東京大学助教授の望月學が第7代の主任教授に就任した。望月教授は、就任早々に、文部省私学助成および私学振興財団からの助成を受けて教室の研究設備の整備と高額医療機器を配備し、教室の臨床と研究の一層のレベルアップをはかった。臨床面では、網膜剥離手術を長崎比呂志講師、白内障手術と硝子体手術を吉村浩一講師と堤清史助手、ぶどう膜炎を望月教授と疋田直文助教授が指導している。特にぶどう膜炎の臨床研究は世界をリードする研究成果があげられている。ヒトTリンパ球向性ウイルス1型(HTLV-I)が従来原因不明とされていたぶどう膜炎の一部のものの原因であることを示し、新しい疾患概念を確立した一連の疫学・臨床・免疫・分子生物学的研究、ならびに、シクロスポリンやFK506などの新しい免疫抑制剤の基礎的・臨床的研究は眼科だけでなく医学全般をカバーする国際学術誌に多数掲載され高い評価を得ている。
 望月教授の専門分野である眼の炎症と免疫に関する国際シンポジウム「第3回国際眼の炎症シンポジウム(Third International Symposium on Ocular Inflammation)」が、平成6年10月22日~25日に福岡市で開催され、望月教授以下教室員一同が担当した。400名を超す参加者があり、特に海外からも150名の眼科医と視覚研究者が出席し、学術発表と討論そして社交行事を通じて国際交流の実をあげた。望月教授が赴任してから平成7年4月末までに学位を授与されたのは4名であった。
 主な研究:ぶどう膜炎の発症機序、免疫抑制剤の基礎的・臨床的研究、ヒトTリンパ球向性ウイルス1型(HTLV-I)とぶどう膜炎に関する研究、眼アレルギーに関する研究、網膜剥離の手術など。

(平成11年~平成30年)

山川良治教授の時代

平成11年2月(1999年2月)、山川良治教授が第8代教授に就任した。山川教授は、京都大学時代、南カルフォリニア大学Doheny Eye Intitute留学時代、琉球大学時代は、網膜色素上皮細胞の細胞生物学や生化学的研究を精力的に行なっていた。同時に眼科マイクロサージェリーの修得にも専念していた。その後は天理よろづ相談所病院の眼科部長として、主に緑内障・網膜硝子体疾患の診療・手術に携わった。この経歴から、久留米大学着任後は、自ら多数例の執刀を行う一方、数多くの教室員の手術指導を行い、久留米大学眼科に眼科マイクロサージェリーの新しい風を吹き込み、良き臨床科家を育てるという久留米大学の建学精神を実践した。一方、基礎研究の重要性も認識しており、山岸昌一教授(現昭和大学医学部 内科学講座糖尿病・代謝・内分泌内科学部門 主任教授)と共同で、糖尿病網膜症とAGEの研究を進めた。
 在任期間中、診療面においては、LASIKなどの屈折矯正手術、角膜移植でのパーツ移植、羊膜移植、光干渉断層計の臨床応用、小切開硝子体手術の導入、PDTや抗VEGF硝子体注射の普及など眼科学の著しい発展に呼応して、あらゆる眼科分野においてsubspcialityを持つ臨床家を数多く輩出させた。
 任期後半には、久留米大学病院副院長として病院経営に参加し、特に男女共同参画に貢献をした。また、医師国家試験委員を務め、医学教育に貢献した。第70回臨床眼科学会(2016年)では特別講演「眼科手術のリスクマネジメント」を担当し、多くの聴衆に深い感銘を与えた。
主な研究:網膜色素上皮細胞とフィブロネクチン、プロスタグランジン合成と代謝、増殖性硝子体網膜症の発症メカニズムと治療(網膜色素上皮細胞の関与)、黄斑上膜、裂孔原性網膜剥離、先天緑内障、先天白内障の発症のメカニズムおよび手術方法・成績の研究、網膜糊の開発、糖尿病網膜症とAGE、新しい緑内障手術の開発など。学位授与されたのは11名であった。

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